わしがテラナー、ペリー・ローダンであるっ

メモ

Psytoh Reiji ist ein Terraner. /
西塔玲司もまた、テラナーである。
Perry Rhodan ist der Terraner. /
ペリー・ローダンは、テラナーなのだ。

昨年末に少部数、つーか、見本合わせて20部つくらなかった、1000話『テラナー』。各章ごとに「グラフィティ」なる挿話があって、ローダン世界でない、現実のわれわれの世界の人々の生きようが描かれている。各グラフィティの結びが、上記「……もまた、テラナーである。」なわけ。
独語einは英語のaに相当する不定冠詞なので、直訳すると「西塔玲司は(ひとりの)テラナーである。」になる……のだが。

第二外語の授業で、「『わたしは日本人です』というときには、Ich bin Japaner.になります。Ich bin ein Japaner. とやると、『わたしだって日本人です』になるから注意してね~』と教えてくれた先生がおられた。いや、人生半分以上昔のことなんで、ご芳名は失念してしまった。なんとも申し訳ない。
とにかく、その伝でいくと、上記文章は「西塔玲司だってテラナーである。」なのだ。グラフィティに登場するわれわれの同時代人は、あるいは苦境にあえぎ、あるいはいわれない差別に苦しみ、あるいは意に染まぬ行動を強いられ、どれもローダンのような理想に邁進する人間にはほど遠い。けれど、かれらもまた、テラナーたりえるのだ……と、そういう文脈であると、わたしは理解した。

また、その流れからいって、ローダンをあらわす際に定冠詞derがつくのは、ある意味ローダンがテラナーの雛型であるからだろう。グラフィティの内容も、かれの抱く夢、理想が描写されている。直訳すれば「ペリー・ローダンはそのテラナーである。」となるが、「(前述の理念を抱く)そんなテラナー」あるいは「(前述の理念を抱くからこそ)テラナー」であるのだと思う。
「ペリー・ローダンこそテラナーである。」も考えたが、ちょっと語感が強すぎたので、上記例文のように決定した。

原典:ウィリアム・フォルツ『テラナー』

Posted by psytoh